他の誰も絶対に経験できない、想像してみようにもどう想像したらよいか見当もつかない、生まれた時から天皇たる(天皇になる→天皇である)人生とは?
そして、父に対する息子のアンビバレントは誰しも(多少の差はあれ)身に覚えはあろうが、「天皇たる」それははたして?
(時代によって憲法上の天皇たるポジションが異なるのは言わずもがなとして。)
上は名菓「シガール」。さて下のヨックモック50周年記念おまけは何でしょう?
回答は、ちょっとしたヨックモックがらみ話のあと。
ハンドタオルでした。
和歌山県の白浜バプテスト教会牧師 藤䉤庸一氏は、「自殺の名所」とも言われる三段壁に「〜 重大な決断をするまえに 一度是非ご相談ください あなたのお力になります」という看板を立てて、1999年から自殺阻止の活動を続けている。自殺を志願した人を教会に仮住まいさせて、社会復帰までのサポートも行う。2019年公開のドキュメンタリー映画「牧師といのちの崖」を観て、2010年講談社発行の著書『「自殺志願者」でも立ち直れる』を読んだ。それは、一人の人間がこれ以上はでき得ないと言い切れるほどに無私にして利他的な活動である。頭が下がると何度言っても言い足りない。その上で、あくまでもその上で、あるいは語弊があるかもしれないが併せて感じたことを書きたい。
献身的な活動を長年続けている牧師と聞くと聖人を絵に描いたような人物かと思いきや、いい意味でとても人間くさい人だ。ときおり感情を露わにする。私が若い頃の上司の持論が「部下を怒ると叱るは違う」だった。「怒る」は感情の爆発なのに対して「叱る」は理性的という意味合い。その伝でいけば「元自殺志願者」のだらしない生活態度を見かねて激しい言葉をぶつける様は「怒る」に近く映る。
長年おおぜいと暮らしてきた上での見立てとはいえ「食べものの好き嫌いの多い人は、人の好き嫌いも激しい傾向があるように思います」といった、私たち凡俗が好んで話題にする血液型別性格のような言も、かえって近寄りがたくなく感じられてホッとする思い。一歩間違うと偏見につながりかねず、「聖人」なら決して口にしないだろう。
氏は新卒で就職した職場で朝寝坊して遅刻を繰り返したり同僚とうまく行かなかったりして、すぐ辞めてしまう。白浜の教会での務めを始めた頃ヤル気を失いかけパソコンゲームに現実逃避した日々も。
といった、およそ立派ならざる過去もカミングアウト。
アゲインストな状況の人々が氏に心を開くのは、等々↑であるからこそでもあろう。
自殺を阻止したが 社会復帰したのちに自殺してしまった人を映画と著書で一例づつ紹介。牧師は考えに考え抜きそして考え続ける。こんなふうに↓
聖書の教えはもちろんのこと自殺は正しくないに決まっているし、そもそも神様が許さない。神様の許しがなければ人は死ぬことはない。だから、自殺を止めたのは自分ではなく、神様が許さなかったのだ。だからだから、生きるのにどうしても耐えられず自ら命を落としえたのは神様がそれを許したということか? はたして??
東京基督教大学で先輩だった夫人の力が大きい。共通の志を持ち、具体的な活動にも携わり、牧師とは違う角度から意見を言う夫人の。
アドベンチャーワールドに行く前に 熊野本宮大社に参拝して熊野温泉郷に泊まりましたが、海外からの観光客が多いこと! 去年行った京都と奈良と箱根も多かったですが、日本人はそれ以上に多かった。モチロン全体の人数は京奈箱の何分の一以下とはいえ、外国人の方が日本人より多いほどでした。西洋人もアジア人も。
タクシー運転手の話では、一番多いのはオーストラリア人で2番目がスペイン人。
オーストラリア人の理由は?ですが、スペイン人は古道(巡礼路)つながりのもようです。熊野古道とスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は共に世界遺産。(写真↑はホテルのロビーにいた和歌山県PRキャラクター「きいちゃん」)
↑手で持った竹の幹をボリッ!と大きな音で齧る4歳♀。休まず食べ続け、幹はどんどん短くなっていきました。いい音を立ててお煎餅を食べる人いますよね。ああいう感じです。竹がそんなに美味しいのなら私どもも欲しくなりそうなほどの食べっぷりでした。お煎餅を食べたくなるように。
ボリッ!のあとのクチャクチャもけっこうな大音量。音を立てていると捕食獣に気付かれやすいだろうからナルホド中国の生息地では天敵がいなかったのだなあと思った次第です。
バックヤードに通じるドアに、飼育員さんに用がありそうな2歳♀↑と8か月♀(「彩浜」)↓
エサは大量の竹の他に乱切りされた(我々が煮物に入れるほどのサイズ)ニンジンごく少量が与えられていましたが、フンの中にそのままの形のニンジンが一つ見えました。
竹は消化できるがニンジンは消化できない内臓構造ということでしょうか。もっとも竹も数パーセントしか消化できないとのことで、だから大量に食べなければならないとのことです。ニンジンは味のアクセント的な意味合いなのでしょうか。
だから、フンも大漁 いや大量。おととし上野動物園で匂いを嗅いでみました↓
その1は 赤ちゃん「彩浜」特集↓
miyashinkun.hatenablog.comお土産↓
どんな体勢でも眠っちゃうのも特徴の一つでしょうか↓
黒柳徹子さんいわく「世の中で一番可愛いのは 赤ちゃんパンダ」。まさに至言だと思いました。生後8カ月🐼「彩浜」。和歌山県白浜のアドベンチャーワールド。
アドベンチャーワールドの🐼6頭のうち「彩浜」以外は起きている時間の多くを食べることに費やしていましたが、まだ授乳期間の「彩浜」はたまに食べるマネをするだけ。そのぶん(と言うべきか)活発に動き回っていました。母親の「良浜」と同じゾーンで暮らしています。
斜面を滑り落ちそうになりました↓
公開時間は10時から3時までですが、公開終了間近なのが分かるのか 2時50分ぐらいに飼育員さん出入り口のドアノブに↓
芦部憲法として知られる憲法教科書定番の第7版が先月出版されました。補訂者の高橋和之教授が「はしがき」で「実は芦部先生が最晩年に九条解釈の変更を考えられていたかもしれないことを知った」と記しています。
1999年に亡くなった芦部信喜教授の見解は、9条2項で戦力の保持が一切禁じられ 「現在の自衛隊は、」その「『戦力』に該当すると言わざるをえない」(『憲法』61ページ)というものでした(大多数の憲法学者もそうであったように)。
高橋氏が「知った」のは『法律時報』誌2018年6月号、氏を含む学者6人による座談会「戦後憲法学の70年を語る」席上。高見勝利教授が紹介した、芦部氏の講演発言です。講演は1995年10月に長野県伊那で一般向けとして行われました。
その中で芦部氏は次のように述べたとのことです(同誌72ページ)。
従来考えてきた通り9条は為政者を法的に拘束する規範だとすると、9条を改正するか自衛隊解消の方向で考えるかしか規範と現実との矛盾を解くことは出来ない。そこで、9条を規範ではなく「政治的マニュフェスト」と考える説を検討しなければならないのではないか。戦争放棄と非武装を謳った9条を改正せず残すために。
しかし、講演より後の『憲法』改版では芦部氏は従来の見解をいささかも変更していないので高橋氏は「はしがき」に記すに留めた、とのことです。
いずれ「平成という時代」が終わった感慨を表した小説も。
夏目漱石『こころ』(大正3年刊行)では最終盤に「明治という時代」が終わった主人公の(そして漱石自身の?)感慨(それは深くかつ重い)が語られたが、
「今日、昭和が終わった。」の一文で始まり、翌年すなわち平成2年2月までの日々が静かに綴られた高井有一『時の潮』(平成14年刊行)は小説全体が「昭和という時代」が終わった感慨になり得ている。
主人公は(著者の高井有一も)昭和7年生まれ。所々で、彼と周囲の人々の昭和を生きてきた半生がこれまた静かに振り返られる。
「昭和という時代」、前半期の戦争を抜きに語れるはずはない。主人公は東京大空襲の悲惨に遭った。戦地で苛烈な体験をした大正11年生まれの先輩社員とは戦期を共にしたという共通の話題になるものの、分かり合うには至らない。
ちなみに、軍隊に入ったが戦地に就く前に終戦となった私の父は昭和4年生まれ。何年かの違いでまるっきり運命が異なる時代だった、と改めて思う。そこらの世代論とは似て非なる。
終戦の年の「銃後」の日々を描いた↓同様、細やかな描写が印象深い。
東京国立博物館での展覧会、とても観応えがありました。
帰ってから空海について勉強しつつ、
動物好きな私ならではに 曼荼羅を模してみましたが。
そう言えば、ケッ作ギャグ漫画『がきデカ』 がきデカ - Wikipedia のこまわり君がこんな感じの動物時計を腕に巻いていましたな。
去年 京都を旅しました↓
動物好きはこんな感じ↓
「君主が時間まで支配する」といった歴史的由来があろうがなかろうが、そもそも区切りなんか無い時間を区切ることそのものが権力的であるに相違なかろう。だから必ず国民主権に基づいていなければならない。今回プロセスの透明性に難はあったにせよ間接民主制による代表が決めたのだから国民主権たることにもちろん瑕疵はない。やや危うさを覚えるのは現憲法によって否定された君主主権の匂いが、ふだんの政治シーンでは感じることが皆無のそれが、ほんのちょっぴり感じられるからではないか( https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf という憲法改正草案を提示している政権党の姿勢と相まって)。漢字熟語とシンクロした我々の時間感覚は文化として肯定したい。だけども、象徴たることが確立しているとはいえ在位期間と一致する建て付けゆえ我々がしっかりしていなければ主権を失う萌芽にもつながりかねない。たとえば有識者懇談会(参考意見未満の位置付けだったようだが)は全国民を反映するために男女同数でなけりゃあといった問題意識を持つのもまるっきり無意味ではないであろう。
れいわ、麗しい響きと思います。その音とマッチしていると感じられる、「令和」の見た目とも相まって(およそ漢字はどれも美しい)。そも単語一つ一つが聴覚的や視覚的に美しいなること 他の言語であるのかないのか。文章の流れとしてならフランス語は聞いていて美しいと感じますが(西洋信仰が知らず知らず身に染み付いちゃっているからかもしれません)。そんなこんなは日本に生まれてとても嬉しいことと思います。
政治性を帯びた含意がどうのこうの、については別論として。もともと区切りなんか無い時間が区切られるのだから政治が関係ないはずはありません。考えるのを止めたらいけないですよね。主権者は我々なのだから。
主権者たる国民全体が参画した形に少しでも近づけるためにも男女同数↓
そう言えば、我らの美的感覚も西洋ナイズか↓
男女同数にすべきではないでしょうか。女性が輝く日本↓への前進として。
前進しているのは確か↓(速度はともかくとして)