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行政書士ミヤシンの800字映画評

映画の感想を原稿用紙1〜2枚分でコンパクトに。ときどき書評。たまに・・・。

映画「アイ・ウェイウェイは謝らない」

映画

北京五輪スタジアムの☆2013年11月公開作(2014年1月記)

    アトリエにいる何十匹もの猫。一匹だけがドアを開けることができる。レバーに飛びついて前脚で。人間が開ける様子を見て覚えた。見ているのはどの猫も同じなのに。

  彼のそんな示唆的な独白で映画は始まる。「何十匹もの猫」は十何億の中国民衆か。そして「一匹」は彼なのか。

 北京五輪スタジアム「鳥の巣」でも知られる芸術家。作品や活動で現代中国の実情を訴える彼に密着したドキュメンタリーである。

     作品を含む言動のすべてと言える様々な彼の「作品」を見ていると、あの「鳥の巣」にも体制批判のメッセージが込められていたのでは?と思えてくる。

   警官に殴られて頭部に重傷を負い、容疑も法規根拠も定かでないまま八十日間も拘束される。描かれた通りが現実であるなら自由と民主主義が抑圧された社会と言う他ない。

     現代日本に生きる私は例えば、成人してから三十余年間、候補者が複数の公正な選挙に全くの自由意思で投票してきた。自由意思で棄権したこともある。こうしたことが全然当たり前でないことは世界の現実が示していると言える。

   こうして(まだまだ不十分な面があるにせよ)自由と民主主義を享受してきた私たちには責務があると思う。 例えば。特定秘密保護法は自由と民主主義を脅かすのか、脅かすものから守るための法律なのか。前者ならどこをどのように脅かすのか。条文を読んでまず己の頭で考える。それが責務だと思う。

   現代中国に生きる表現者たる彼の責務。「一匹の猫」としてのそれを強く深く自覚し覚悟しているからこそ「謝らない」のであろう。

  この猫はドアを開けることはできるが、閉められない、と彼は語る。あるいはそれは「開けた」後がまた難しい、との彼の苦悩か焦燥か戒めか。責務としての「作品」がはたして社会の変革につながっているのか、との。