いずれ「平成という時代」が終わった感慨を表した小説も。
夏目漱石『こころ』(大正3年刊行)では最終盤に「明治という時代」が終わった主人公の(そして漱石自身の?)感慨(それは深くかつ重い)が語られたが、
「今日、昭和が終わった。」の一文で始まり、翌年すなわち平成2年2月までの日々が静かに綴られた高井有一『時の潮』(平成14年刊行)は小説全体が「昭和という時代」が終わった感慨になり得ている。
主人公は(著者の高井有一も)昭和7年生まれ。所々で、彼と周囲の人々の昭和を生きてきた半生がこれまた静かに振り返られる。
「昭和という時代」、前半期の戦争を抜きに語れるはずはない。主人公は東京大空襲の悲惨に遭った。戦地で苛烈な体験をした大正11年生まれの先輩社員とは戦期を共にしたという共通の話題になるものの、分かり合うには至らない。
ちなみに、軍隊に入ったが戦地に就く前に終戦となった私の父は昭和4年生まれ。何年かの違いでまるっきり運命が異なる時代だった、と改めて思う。そこらの世代論とは似て非なる。
終戦の年の「銃後」の日々を描いた↓同様、細やかな描写が印象深い。