ミヤシンの映画と読書とスポーツ+馬鹿話

子供の時からミヤシンと呼ばれている男です。本や映画やスポーツやニュース等の感想を短く書きます。2016年1月に始めました(2020年4月にブログタイトルを変更しました)。

常井健一『無敗の男 中村喜四郎 全告白』文藝春秋2019年12月刊

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   自民党に所属していた1994年に斡旋収賄容疑で逮捕されてから無所属として茨城県の選挙区で、裁判中に2連勝、実刑が確定して服役後に5連勝中。中村喜四郎衆議院議員は選挙に「無敗の男」である。一人しか当選できない小選挙区で、政党に属さず支援も受けずに。


   私が知る限り、その「謎」に迫った記事はなかった。氏が「大のマスコミ嫌い」であるのもさることながら、周辺を取材しての記事も私はこれまでに見たことがない。


   著者は、距離の取り方がやや微妙と感じられるながらも氏の懐に飛び込んで「全告白」を引き出した。選挙区の取材も重ね、トランプ大統領の強固な支持基盤であるラストベルトや田中角栄元首相が受託収賄容疑で逮捕されてからも選挙で圧勝し続けたこととの比較を加えての著者による「無敗」理由の考察は腑に落ちた。


   読み終えてザックリ一言で言えば、氏は有権者から人気があるのだ。「昭和の二枚目」たるルックス(Wikipediaには若い頃の写真)はともかく、毎週末に選挙区を愚直に遊説する。演説そのものも上手い。ベテランの秘書連が日々地道に有権者の声を聞く。そうした積み重ねで「オレが動かないと中村は落っこちちゃう」と草の根支援をしてくれる。利益供与や利益誘導の類は一切ない。


   しかし、、、
   氏が「全国民の代表」(憲法43条)たり得ているか、という疑義を私は払拭できなかった。たり得ている国会議員がどれほどいるか、は別論として。著者も「中村自身はどんな国家をつくり上げたいのか」については留保している。


   選挙に勝つことそのものが自己目的化しているのではないか、と読み終えた今でもやはり感じざるを得ない。 


中村喜四郎 - Wikipedia

憲法43条1項 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

ソレは昔も今も大事(のハズ)

前世紀に、3分間スピーチって流行りましたよね。会社の朝礼のときとかに。
ウチの部では月曜日の朝礼、毎週一人ずつでした。私自身が言ったコトを含めてまるっきり忘れていますが、ただ一つ覚えているのが↓
5歳ほど下の男性社員、学生時代に入っていたワンダーフォーゲル部の経験談でした。チームを組んで山に登るとき、テントを組むのが上手い人、料理が得意な人、〜が出来る人、それぞれ不可欠な役割があり、具体的に出来ることがなくても皆の気持ちを盛り上げるムードメーカーもまた欠かせない、と。「会社の仕事も同じ」という話のオチはともかく、ムードメーカーのくだりを 効率優先や成果重視の度合いがドンドン強まる今世紀いろんなときに思い出します。
それってAIには出来ないことの一つだよなあ、とも思いますが
近未来を予測したハラリ氏のベストセラーには 出来るようになるって書いてあったかも⁇

miyashinkun.hatenablog.com

 

ブティジェッジ撤退に日本でもホッとしているかも⁇

dot.asahi.com

滑舌に自信がないアナウンサーが。
新聞もね。見出しには長すぎる。

そういえばワタシが生まれてからの米国大統領、言いづらかったり長かったりの名字 いなかったなあ。ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ、クリントンオバマ、トランプ。

「横綱大関」

headlines.yahoo.co.jp

45年前、1975年初場所番付にも「横綱大関」。たまたま手元にある『月刊 大相撲』1975年2月号にて。懐かしい名が並んでいます。

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西横綱の輪島が「横綱大関

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一人大関だった貴ノ花は 奇しくも今度の一人大関貴景勝を育てた前師匠貴乃花の父


 

ミシェル・ウエルベック『セロトニン』

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関口涼子訳。河出書房新社 2019年9月発行(原著は2019年1月)。
   著者は、「フランス人(西洋人)たること」を前面に押し出した男の「苦悩」を描いた小説でベストセラーを連発している。「訳者あとがき」によると本作も出版後わずか半年で47万部売り上げた。

   一人称小説である本作の中盤で「刑事コロンボは僕らの世代が若かった時に並々ならぬインパクトを与えた」という独白があり、著者は 「刑事コロンボ」フリークを自認する私と同じ1958年生れなので一瞬嬉しくなった。しかし考えてみれば、私のフリークは1970年代の第1シリーズ限定であり、本作の主人公は46歳のようであるので、残念ながらズレている。
   「のようである」と書いたのは、独白や回想をしている時点が近未来のようでも近過去のようでもあるからだ。それは、「著者あとがき」で解説されている「細部においてはわざと事実関係の誤りなどをそのまま残しており、巧妙にリアルとフィクションの境を曖昧にしようとしている」に含まれるかどうか。私の読み間違いで、時点はハッキリしているのかもしれないが。

   タイトルの「セロトニン」とは脳内で働く神経伝達物質の一つで、その分泌を増やす抗鬱剤を主人公は服用している。

   本作も含めて著者の作は、「没落」しつつある西洋(「没落」しつつあるフランス)がキーになっている。それがフランス人読者の琴線にふれるからこそ本作もまたベストセラーたりえるのであろう。
   しかし非西洋の読者にとってはどうか。
   前作『服従』は近未来フランスでイスラム政党が政権に就いたという設定なので、ヨーロッパがイスラム世界との関わりに直面していることを日頃の報道等で見聞きしているだけに著者の問題意識が頭に入った。
   本作はフランスが農業国たる地位を失いかけているというトピックもあるにはあるが、非西洋ながら「落ち目の先進国」ではある日本の私には主人公らの「苦悩」は分かるような分からないような読後感であった。本作の中でもそんなくだりがあったように、日本人の「立ち位置」は微妙と言えるのかもしれない。あるいは、社会にとっても個人にとっても「近代化の行き詰まり」が日本でもこの先さらに進めば(非西洋人であっても)もっと「分かる」かもしれない。

   なお、村上春樹の性描写そのものに嫌悪感を覚えている方にはお薦めしません↓と言うべき箇所が本作にもいくつもある。 

miyashinkun.hatenablog.com

ちなみにコロンボフリークぶり↓ 

miyashinkun.hatenablog.com

 

 

 

映画「ジョジョ・ラビット」を観ました

www.foxmovies-jp.com

コメディタッチのエンタメ仕立てであっても、紛れもなく反戦映画だった。新しい切り口の。「アンネの日記」のオマージュたり得てもいて。

いずれも第二次大戦ドイツ軍の
大脱走」の捕虜収容所長は教養ありげなハト派なるも具体的な行動には踏み込まなかったが、
本作の無教養ふう大尉は主人公ジョジョ少年を守るため踏み込んだ。
所長は前線送り(の場合には戦死または捕虜になる可能性が高いことが示唆されていた)になり、
大尉は進軍してきたソ連軍から銃殺された。

JAL見学

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夕方、羽田空港の「JAL工場見学」に参加しました。
格納庫の上階で元整備士さんから 機体の構造についてやなぜ飛べるのかについてレクチャーを受けたあと、元CAさんのガイドで格納庫を見学しました。
4機入庫していて、ちょうど2機を整備作業中でした。

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格納庫の前の滑走路に次々と着陸

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後方に富士山

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「悪い」と「良くなっている」は両立する

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   『ファクトフルネス 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』を読みました。日経BP社2019年発行(原著は2018年)。

   「悪い」と「良くなっている」は両立する、と本書は説きます。「悪い」は現在の状態、「良くなっている」は変化の方向を表します。1948年スウェーデン生まれの著者ハンス・ロスリング氏は医師として、経済発展と農業と貧困と健康のつながりについての研究者として、国際援助機関のアドバイザーとして世界の貧困地域の「悪い」が少しづつでも「良くなる」よう尽力してきました。

   「世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
   A約2倍になった Bあまり変わっていない C半分になった」
これは、本書の冒頭で出された13問のクイズのうちの一つです。AあるいはBと答えがちではないでしょうか。正解はC。すなわち29%から2017年には9%に下がっています。9%と言えども人口数では何億人にもなり、もちろんそれは「悪い」現状です。しかし、おおぜいの様々な取り組みにより「良くなっている」のも事実なのです。

   クイズは他に「現在、低所得国に暮らす女子の何割が、初等教育を修了するでしょう? A20% B40% C60%」「自然災害で毎年亡くなる人の数は、過去100年でどう変化したでしょう? A2倍以上になった Bあまり変わっていない C半分以下になった」「世界中の1歳児の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょう? A20% B50% C80%」 「いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるでしょう? A20% B50% C80%」等。どれも世界各国でアンケートを取ると一般の人もいろいろな分野の有識者も正解率は非常に低いとのことですが、正解はいずれもC。データに基づいて著者はそれを証明します。

   こうした「世界はどんどん悪くなっている」の他に「ひとつの例がすべてに当てはまる」「誰かを責めれば物事は解決する」「いますぐ手を打たないと大変なことになる」等10の思い込みを 本書を読むと「乗り越え」ることができます。

   著者は、事実に基づいて世界を見ることすなわち「ファクトフルネス」を提唱します。事実は、正確なデータを真正面から見ることで分かります。著者自身がファクトフルネスでなかったゆえに取り返しのつかない失敗をした経験も明かされます。もちろん、ファクトフルネスによって「状況は思ったほど悪くない」と油断するのではなくもっともっと「良くなる」よう小さな一歩を重ねることが肝要なのです。

   「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込みを乗り越える章で「子供にトンカチを持たせると、なんでもくぎに見える」という諺を引用するなど、全体にわたってユーモアに溢れていました。

   疑問なのは、日本を含めた国々で顕在化している高齢化への問題意識が希薄なこと。と思ったことこそ読み終えた私がファクトフルネスを身につけた証かもしれません。それは鵜呑みにするなという意味にもなるのですから。

   ハンスを中心に二人の子オーラとアンナとの共著です。父ハンスは出版前の2017年に癌で逝去しました。

濱野ちひろ『聖なるズー』

集英社 2019年発行。開高健ノンフィクション賞受賞作。

   動物性愛者を追ったノンフィクション。知られざる世界を示すことがノンフィクションの大きな目的とするならば、本作は読んでよかったと思える作品です。ほとんど知らない(知りたくもない)ながら おぞましさしか覚えなかった動物性愛ですが、本作によって おぞましさだけではないことが分かりました。

   主にドイツの「ズー」(動物性愛者)たちを取材。彼ら彼女らは動物との対等な関係を標榜していて、動物のあるがままを受け入れ、それによって心が通じ合っていると言います。確かにそのように見える様子がいくつも記されています。著者が会った「ズー」たちが決して動物虐待者でないことは間違いありません。

   しかし、しつけは施します。それは「あるがまま」と矛盾しないのか? 「ズー」たちは説明しますが、説得力は強くないように思いました。

   生き物である以上あるがままは性欲も含み、心が通じ合っているからこその行為と言います。

   冒頭で私は「本作によって おぞましさだけではないことが分かりました」と書きましたが、それは文字通りの意味です。本作の中にもおぞましく感じる箇所はありましたし、読み終えても動物性愛ということを肯定的に認めるのはやはり難しいです。

   読んでいて疑問に感じたことがいくつかあります。
   その一つが、ある男性「ズー」が「パートナー」のオス犬に性的行為を「行う」くだり。彼は「きみも見る?」と持ちかけ、著者は「もちろん」と。
   疑問なのは 心が通じ合っている同士での行為そのものではなく、初対面に近い人に「見せる」ことの「意思確認」を犬にしないのか?ということです。動物と対等の立場で共生するという信念を持つ「ズー」として、それはどうしてか。(人間であれば)普通は見られたくない行為です。
   そして著者は取材のため見るのが「もちろん」なのはもちろんですが、この題材に真摯に向き合う彼女の姿勢に照らして逡巡や葛藤が何もなかったようなのが不思議に思えます(自身の心の揺れを書き込む本作のスタイルなので)。

   酷いDVを被った体験を彼女は本作の随所で明かしています。「動物」を切り口にしながら、真のテーマは「愛とは?」と捉えるべきなのでしょう。その観点で考えさせられることは確かにありましたが、であっても以上の感想に変わりはありません。