ミステリー小説の古典的名作ウィリアム・アイリッシュ著『幻の女』。あまりにも有名な書き出しの邦訳は3通りあります。
①夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
②夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。
③夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。
もっぱら知られているのは稲葉明雄氏訳の③(または②)ですね。
②は早川書房から1973年に発行された『世界ミステリ全集4』(写真↑左)です。
③(写真↑中)は1994年の文庫版改版時に、②の二文が一文に改められました。
2015年に発行された黒原敏行氏の新訳(写真↑右)は、③をそのまま踏襲しています。
①は、小説誌『宝石』1号で本作を最初に邦訳した黒沼健氏の訳です。稲葉氏と黒原氏が各々「訳者あとがき」で引用している訳文を再引用しました。
訳が変わるとき日本語としてこなれた文章にするために直訳調から意訳調に改めることが多いと思いますが、本作の場合は逆です。拙ブログ↓に載せた原文を読むと、①から②で意訳調から直訳調と言うより直訳そのものに変わりました。
この稲葉氏訳②③を新訳の「訳者あとがき」で黒原氏は、「直訳の奇跡」すなわち「原文どおりに訳して意味を過不足なく伝え、しかも美しい」という「翻訳の理想の形がここに実現」と評しています。
②→③の手直しを施した理由は稲葉氏自身が文庫版「訳者あとがき」で、原文が1920年代ジャズ名曲の歌詞をもじったものなので語調を合わせた、と説明しています。
なお、写真左の「コーネル・ウールリッチ」とはアイリッシュの別名義です。
miyashinkun.hatenablog.comハヤカワポケットミステリ版↓