その青年は「悼む人」。野宿をしながら全国を回って 誰であれ どんな死に方であれ 「悼む」、、、
2006年から2008年まで『オール讀物』に連載された小説です。
読みながら、
「イスラム国」に殺害された日本人の ジャーナリストの人ともう一人に対するメディアや「世間」の反応の「差」への私的違和感を思い出しました。
3年前のそのときにFacebookでツブヤキました↓
徒競走で手をつないでゴール的な「戦後民主主義」平等観には与しませんが
こと いのち は絶対的に平等で
引き算(例えば「非常識だから〜」)を (したがって足し算(例えば「ジャーナリストだから〜」)も)してはならない、と。
言わんとすること分かってもらえるよね? コトは「トンマなヤツだ」にとどまらないわけで。
ワタシもあなたも絶対に「引き算」されないとはゼンゼン限らず、、、お気づきのとおり 少なくともオレは相当にトンマだしね(^_^;)。
言い換えると
引き算のリクツには際限がない。
たとえば
ワタシ自身は怖がりかつ心配症なので危ないところには行きませんし、このヒト非常識だなあと思うことも少なからずありますが
(政治的にも自然環境的にも)危険な所へ行ったがゆえの生命の危機の事態のたびに散見されるイサマシイ論を突き詰めると
日本より安全な国は少ないのでフツーの海外旅行とかでも「自業自得」にされかねないと思うなあ。
モチロン
近代社会が獲得した移動の自由(その保障が未だない国もある)には
合理的な規制が伴うけれども
そこはワタシの↑と次元が異なるハナシなので。