かつての反戦系映画で旧日本軍(特に陸軍)の現場司令官クラスを演じるのはしばしば「粗暴な」「人相の悪い」悪役俳優でした。分かりやすすぎでは?と思ったものです。(逆に旧軍のあれこれを美化する作もまたあった。)
2000ゼロ年代の米国パウエル国務長官は「ハト派の軍人」とも言われました。その評が本当に氏に当てはまっていたかは別として、「軍人なのにハト派??」と少なからぬ日本人には分かりにくすぎるかもなあ とフト思ったものです。
今年7月に講談社から発行された本作で柱となる3人のヒロシマ旧陸軍司令官はハト派とは言えないにせよ「粗暴」などとは程遠い人物です。
本作での問題意識は、旧軍がいかに兵站を軽視または無視したかです。
後方支援たるがゆえに大向こう受けはしない兵站を疎かにする軍人がなんと多かったことか。保身や栄達そして勇ましいばかりの精神主義ゆえでしたが、それによって戦闘死以外でも多くの兵士たちの命が失われました(日本が備え得る兵站力から見て大戦を戦い切るのはそもそも無理無謀でした)。
3人はそうした軍人たちとは一線を画します。広島に、輸送船を差配する陸軍船舶司令部の拠点がありました。島国の日本にとって兵站はまず海上輸送から始まります。
先の大戦において日本にとっての兵站は何のためだったか。他国に攻め入るために他なりません。兵站が順調で侵略が「成功」すればよかった、とは言えますまい(「進出」などと言葉を換えても実態に変わりはありません)。
いずれにせよ、その進軍の過程では血も流れます。先方にも当方にも。
だからでもありましょうか、反戦派(ととりあえず大雑把に一括りします)は往々にして「兵站を省みない戦争遂行」といった批判はすれども兵站そのものを正面からは取り上げない傾向もあるような気がします。
ただ、軍事にとって兵站がいかに重要か。それは、兵站の拠点たる広島が当初から原爆投下の第一候補とされていたことからも明らかです。
著者は価値中立的に兵站について述べていきます。兵站が功を奏した序盤の局地的「勝利」についても詳述しました。
「広島に生まれ育った取材者として、私はこれまでさまざまな視点からヒロシマを見つめてきた」(本作あとがき)著者。
いくつかのノンフィクション賞を受賞した『原爆供養塔ー忘れられた遺骨の70年』を始めとして本作を含め、そのスタンスは紛れもなく揺るぎもない反戦です。
軍事は廃絶すべきではあっても現実に存在します。そこに目を背けないことと平和を希求することは両立し得ると思います。
著者がそうであるように。
「ハト派の軍人」たる(ことが可能なのであれば)立ち位置もあるいは類似するかもしれません。