新人営業マンのとき製缶メーカーを担当しました。
そもそも学生の頃はおよそ缶というものは飲料会社や缶詰会社が自社で作っているとボンヤリ思っていましたが それはともかく
先方との打ち合わせで製品リストのような書類を見ながら
「空缶」を「あきかん」と読み上げるや否や
「く・う・か・ん! あきかんはゴミ!」と。
改めて言うまでもないけど学校で習うことより仕事で習うことの方がはるかに多いよね。
学校で〜で ワタシが直接役立っているのは家庭科のチバ先生に教わったボタン付けだけです。
新人営業マンのとき製缶メーカーを担当しました。
そもそも学生の頃はおよそ缶というものは飲料会社や缶詰会社が自社で作っているとボンヤリ思っていましたが それはともかく
先方との打ち合わせで製品リストのような書類を見ながら
「空缶」を「あきかん」と読み上げるや否や
「く・う・か・ん! あきかんはゴミ!」と。
改めて言うまでもないけど学校で習うことより仕事で習うことの方がはるかに多いよね。
学校で〜で ワタシが直接役立っているのは家庭科のチバ先生に教わったボタン付けだけです。
今年9月発行。著者は朝日新聞の記者。ベテラン新聞記者ならではの整理された構成と達意の文章により、経営判断の誤りや経理上の不正で社長五代の間に同社が「崩壊」(本書第六章タイトル)していく推移がよく分かります。
ただし、、、
「わかりやすい話」や「おもしろい話」には気をつけなきゃ とワタシはかねがね思っています。
「崩壊」した最大(にして ほぼ唯一の)原因を著者は、社長たちの強烈な上昇志向(悪い意味で) やエキセントリックな性格に帰しています(もちろん、取材に基づいて ですが)。だから、とてもわかりやすい(かつ おもしろい)けれども、、、
そして
おっとりした社風が社長たちの「独裁」を許したと指摘していますが、何かと社風(とか校風)を持ち出すのも危ういかなあ。それが一因であろう以上に全てが分かったような気になっちゃうかと。
高橋順子『夫・車谷長吉』2017年5月発行。妻である詩人・順子が、長吉との日々を回想した手記。
車谷長吉(2015年死去)は、私小説作家として評価が高く、実在の人物を悪し様に描くことでも知られ、毀誉褒貶が激しかった。
長吉の想いに応えて1993年に40代後半同士で結婚。誉褒よりも毀貶がはるかに多い性格は十分わかっていたつもりだったが、結婚後 露わになったエキセントリックぶりはそれ以上(以下と言うべきか)だった。小説上ばかりでなくリアルでも人に(順子にも) 悪意ある言葉、 出家を決意していた との言とは裏腹の世俗欲。そのたびに呆れ、憤る日々。だが、順子が結婚を決意した手紙の「この期におよんで、あなたのことを好きになってしまいました」(本作53ページ)という気持ちはその後「どの期」に及んでも変わらなかった。
それを純愛と言うのはちょっと違う気がする。私は、彼女の名前にちなんで「順愛」と言いたい。夫唱婦随なる意味では決してなく、誉褒<毀貶の長吉をそのまま受け入れたと言うよりも、「どの期」でも変わらぬ「生涯かけて大切な人」(本作33ページ)という想いそのままに日々を送ってきたという意味合いで。
本作は、長吉と順子を描いた「私小説」たりえてもいるように思う。だとしたら、命がけで私小説を書いていると言っていた彼への何よりの供養と言えるかもしれない。
結婚初期の「私詩」集(帯には、私詩であるを超え、と)『時の雨』(1996年発行)と併せてお薦め。
わが偏愛するパンダと言えば
わが偏愛する「刑事コロンボ」第一シリーズの第34話「仮面の男」(1975年)。パンダのぬいぐるみが犯人に辿り着く手がかりとなり、(パンダ生息地である)中国に関するあるラジオニュースが逮捕の決め手になりました。サスガ細かい所まで手が込んでいて かつ分かりやすいストーリー! その70年代半ばは ニクソン大統領の中国電撃訪問(と日中国交回復)の数年後という時期でもありましたね。
それはさておき
上野動物園のシャンシャン 今日から一般公開。黒柳徹子さんは「世界でイチバン可愛いものは、(パンダの中でもとりわけ)赤ちゃんパンダ」とコメントしましたが、ホント参りました!と言いたくなるぐらいカワイイと思います(とりわけ赤ちゃんは)。パンダ愛、徹子さんの足元にもまるっきり及びませんけど。
観覧抽選には外れましたが
今年は🐼のXXの匂いを嗅ぐ私的重大ニュースに恵まれました↓(🦍の話と🐻の話の次に書きました)
8編から成る連作短編集です。2015年刊行。
ミステリーの古典たる チャンドラーの同名作とは全く関係ありません。(著者の直木賞作『小さいおうち』は 古典的絵本「ちいさいおうち」と関係大ありでしたが。)
主人公(と言うべきか)は、認知症がドンドン進行する東昇平。家族各々が抱える事情や思いを浮き彫りにする、言わば舞台回しも担っています。
最終8編目の最後に、ある属性を昇平と同じくする人物によってタイトルの意味が明らかになります。
著者を読むのは『小さいおうち』以来2作目です。長編と短編の違いゆえか 直木賞作の重厚感とはまたテイストが異なる味わい深さ。いい意味で読みやすい文章は共通です。
5編目ラストに秀逸なウイットが。
ケアは筆舌に尽くしがたいほど大変だが 昇平の「おかげ」で家族たちは自分を見つめ直す。だから、彼が「いる」意味はモチロンある。との読後感はマトはずれ的深読みでしょうか。
私も親が要介護です。
この作品だけでもスピルバーグが反トランプなのが頷ける。長らく観たいと思っていた、2004年公開のスティーヴン・スピルバーグ監督作。
公開された年は、2001年911テロのあと米国内(に限らず)の「分断」が取りざたされていた頃。その15年ほど前には共産主義体制が次々と崩壊、ユーゴ紛争の90年代も経ていた。
そんな時代背景。移民制限強化など政治の動きはそれとして、人種民族の違いに対するオープンマインドは米国社会に根付いているはず!とのメッセージが本作から強く感じられる。
東欧圏からニューヨーク国際空港に降り立ったビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)。出国後のクーデター勃発によりパスポートが無効に。米国に入国できず、空港ターミナルで暮らすことになる。何日も何週間も何ヶ月も。愉快な騒動を引き起こしながら、いつしか非日常が「日常」になっていった。
他ならぬニューヨーク の国際空港は、言わば「人種のるつぼ」。乗降客が世界中から行き来するばかりでない。そこで働くスタッフもホワイト、アフリカ系、ヒスパニック、インド人、東洋人。米国生まれも移民もいる彼ら彼女らに、肌の色で相手を見る人間は一人もいなかった。事なかれ主義ゆえビクターを留め置こうとしたり追い出そうとしたりの入国審査責任者さえも。
同監督の2005年公開「ミュンヘン」がいわゆるシリアスな社会派だったので本作もそのようだろうと思い込んでいたが、さにあらずでハートウオーミングなコメディタッチ。終盤、恋心を抱いたCAに来ニューヨークの目的を明かし、ラストでその目的を果たす。とても「気」のいい映画でもあった。
ビクターが語った来ニューヨークの目的は、1958年のハンガリーに遡る。すなわち、市民の反乱がソ連に抑え込まれた「ハンガリー動乱」の2年後である。脚本も細かいところまで行き届いていた。
1972年、朋子は中一の一年間を
小六のいとこミーナの家で暮らす。
二人はすぐ仲よしになった。姉妹のように。そして、ポチ子と三姉妹のように。池付きの広大な庭のあるミーナの大邸宅で飼われるコビトカバのポチ子と。
朋子にとってミーナにとってかけがえのない一年間の物語。きめ細やかな文章で美しいストーリーを紡ぐ著者ならではの。
表紙を描いた寺田順三氏の挿画がたくさん配されていて、これまたとってもイイ。
ポチ子は、無骨な感じのない すっきりした カバらしくない顔、でしたが
上野動物園のモミジちゃん↓も実 にカワイイ♬顔でした。
世界三大珍獣(ジャイアントパンダとオカピと)とも言われるコビトカバ(カバ科コビトカバ属)は、よく見ると獰猛な顔をしていて気性も激しいらしいふつうのカバ(カバ科カバ属)とは何かと違うようですね。
1972年と言えばミュンヘン五輪。大人気となった男子バレーボール日本代表に二人も熱狂します(ポチ子は無関心^^;)。
ミーナは名セッター猫田の大ファンでしたが
その年ちょうど私も中坊でして、セッターが上手くて小柄で子猫みたいに可愛いらしいルックスの同級生に「猫田」というアダ名がついたコトを懐かしく思い出しました(ハタチのころ往来ですれ違いざま10センチくらい上から「久しぶり!」と呼び止められました。彼でした^^;)。そんなこんなも読書の愉しみですよね。
蛇足ながら
2006年 中央公論新社刊の本作は新聞小説だけあって(であろう)純文学色(と言うべきか)はきわめて薄い。たとえば 文芸誌に連載された『猫を抱いて象と泳ぐ』とは真逆です。掲載媒体を知るのも本を選ぶのに効果的かも。モチロン著者の両面を味わうコトをオススメします。
たとえばアンチ村上春樹は少なからずかもしれませんが、アンチ小川洋子はあんまりいないのではないでしょうか。クセがないのにエッジが効いているとでも言うか(中にはクセ強めの作もありますが)。