コンセール・モロー&アンジェリコ
聴き入りました
又吉直樹の第二作『劇場』を読みましたが
私は断然、第一作『火花』のほうがよかった。
同じロクデナシでも『劇場』の「永田」より『火花』の「神谷」に多少なりとも共感でき、
恋愛も「永田」と「沙希」のそれより「神谷」と「真樹」のそれが素敵に思えました。
(「永田」は主役で「神谷」は脇役だけどね。)
『火花』の登場人物たちが語るお笑い論はストンと腑に落ちまくりましたが 『劇場』における演劇論はあんまり、、、だったのは私が「大正テレビ寄席」や「コント55号の世界は笑う!」以来ン十年来のお笑い好きなるも演劇には馴染みが薄いせいでしょうけど^^;
両作に共通する「世間に認められ得ぬオノレ」は目新しい題材とは言えないでしょうが、『火花』からは著者独自の目線がビンビン伝わりました。
というわけで結局 あらためての『火花』、になっちゃいました。
読み終えました。ストーリーがどう展開するか?→こう展開するか! の連続。
これまでのハルキ作と少しずつ似ているような 全く異なるような、、、これまでを「昇華」した物語と言うべきか、、、「集大成」では決してないと思う。読み終えて 次作以降がますます楽しみに。
村上春樹!新作!!だけにメディアでさまざま内容紹介されていますが
ゼヒ予備知識なしで読んでほしい(ほどの読み応え!!!)と思います。
なので、前後関係はモチロン伏せて 短い文章だけ引用→「彼は穏やかな声で言った。まるで頭の良い大型犬に簡単な動詞の活用を教えるみたいに。」(第1部418ページ)
まさにハルキならでは 「まるで〜」の比喩。大型犬(は頭が良い と相場が決まっている)でなければならず、簡単でなければ 動詞でなければ 活用でなければならない。ナルホド♪の「的確」な比喩でした。
谷崎川端三島のような美しい文章 とは言えないでしょうが、まさにハルキが余人をもって代えがたい所以と思います。好き嫌いが大きく分かれる所以だろうとも思います。
私はハルキストでも村上主義者でも何でもありませんが、本作を読み終えれば彼の長編をぜんぶ読んだことになります。
ろじーた↓とは同日生れの子豚同士。一緒に「暮らして」いる。
miyashinkun.hatenablog.com
あらためて青鬼の深慮にジーンとくるね。
先日、色彩の専門家から話を聞く機会があり
「この物語の赤鬼は赤でなければ、青鬼は青でなければならなかった」「色イメージとして、赤は情熱、青は冷静だから」と。
絵本でなくても(文字だけでも) 「赤」と「青」で 二人のキャラが分かる というワケですね。
47年前、学芸会の学年劇がコレでした。
今の子も読むのかなあ。
↓は、有限会社小さな出版社版 2000年発行。絵は狩野ふきこ。
障害者配慮に課題 車いす男性、自力でバニラ・エア搭乗:朝日新聞デジタル
この件について考えていくためにはやはり、昨年施行された障害者差別解消法(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)も見るべきだろうと思います。
法条文↓
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/pdf/sabekai/leaflet-p.pdf
法施行にあたって各省庁が所管事業向け対応指針を作定しており、国土交通省による指針↓の21ページに航空事業について載っている、とFacebookである方がご教示くださいました。
http://www.mlit.go.jp/common/001180785.pdf
ゴッチャゴチャになっていた本棚を整理したら
2冊あった本(『こころ』は3冊^^;)
山の採石場でリーダー格だった達夫。発破作業中に作業員を死なせてしまった後、函館でひとり「何もせず」暮らしている。日が高くなってなおパンツ一枚で寝ている冒頭、うつ伏せの全身が虚無感の塊り。「生きる屍」を綾野剛が好演した。
パチンコ店で拓児(菅田将暉)と出会い、海岸のバラックに住む彼の姉・千夏と両親との4人家族とかかわりを持つようになる。4人それぞれに「生きる屍」だった。
イカ工場で働き、風俗の仕事もする千夏。妻子ある造園会社の社長との関係を惰性で続けていた。
傷害罪で仮釈放中の拓児が効いている。達夫とは似て非なる、だ。元同僚から「山でみんなが待っている」と言われる(採石への復帰を決意した後「仕事人」の表情を垣間見せる)達夫に対して、「能力」もヤル気もなくルックスは残念で腕っぷしも弱い。社長から「お前を必要とする人はどこにもいない」と決めつけられる。だが、草花の世話をするのが好きな気のいい(だけの)青年であった。上品ではないが汚くはない食べっぷりのよさが印象的。
愛を誓い合ううつくしい一夜を共にした千夏を妻に、友情が芽生えた拓児を弟にし、二人のため自分のために拓児を連れて山に戻ることを決意。愛と友情で結ばれた三人が「光輝く」であろう矢先、姉のそして自分の尊厳を蹂躙した社長を拓児が刺してしまった。それでも、愛は友情は揺るがぬさまが描かれた三人はきっと「光輝く」に違いない。
姉弟の父は脳梗塞のため寝たきり。後遺症により性欲が亢進する。現実の厳しい一面であるにしても、老親のあれこれに直面中の身として見るのが辛かった。作り手が高齢者の尊厳には無頓着とは思わないが。風俗のやり方で「処理」する千夏が父を殺そうとする行動につながるとはいえ、これでなければ描けなかったか。
「小さいおうち」の「女中」だったタキが自叙伝に綴っていたのは「本当」のことである。市井の人々の暮らしには戦前にだって喜び楽しみがあったと。
だが最後に「嘘」を書く。正治の方から「おうち」に会いに来てほしい旨、手紙を書くよう「おくさま」に進言。その手紙を彼に届けなかったことを自叙伝でも伏せた。
正治の出征前日だからこそ、「おくさま」が浮気を重ねていた彼の下宿に行かせるべきか行かせぬべきかの二択で悩んだ末に勧めた手紙だった、と綴る。
はたしてどこからが「嘘」なのか。 タキ自身にとっての憧れの人との逢瀬の妨害の含みも? あるいはそれが最大の目的だった、がゆえに届けなかったか。そして憧れの人は正治なのか「おくさま」なのか。「嘘」に生涯苦しんだタキは、独身を通した。「本当」の気持ちは自分でもわからないのかもしれない。
人々の哀歓。戦争という「変数」(為政者にとっては「定数」か)に曝されて「哀」ばかりがどんどん増えていく。取り返しがつかないほどに。「変数」が強大なだけに人間の奥深さ複雑さが一層浮き彫りにもなる。
そうしたさまが見事に描かれている。そうであった原作に忠実に。出演者たちの好演もあり、映画表現ならではの味わいも加えて。
「おうち」の日々に戦争の罪深さが静かに表れているので、最終盤の米倉斉加年の反戦セリフはない方がよかったように思う。
原作ではこのセリフは目立たない。声高に反戦を訴えるのではない全体と調和して収まっている。印象強い米倉の渋さゆえか、セリフそのものは感動的であるにせよ(だからこそ)かえって既視的な「反戦映画」色が濃くなってしまったのではないか。