十津川警部シリーズを始め大人気小説家だった氏。
こういう著作もありました↓
昨日、「北京パラリンピックでロシアとベラルーシはメダルランキングにカウントされない」との発表が報じられました。
これまで私は、パラリンピックにしてもオリンピックにしても「国別メダルランキング」はマスコミが集計して報じているだけと思い込んでいました。「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(オリンピック憲章第1章6-1)と定められているので。
そこで東京オリンピックの公式サイトを見てみたら、たしかに発表されています↓。よく見ると「国」ではなく「チーム」と。なんか子供の言い訳「だって~って言ったもん!(だから憲章とも矛盾していない)」みたいにも思えるなあ。
https://olympics.com/ja/olympic-games/tokyo-2020
この点についてコンパクトにまとめられた安田聡子氏の論考↓
https://www.huffingtonpost.jp/amp/entry/olympic-medal-count_jp_610de5e9e4b041dfbaaa0104/
1970年公開の映画「レットイットビー」にも収められていた映像もあれば「レットイットビー」には収められていなかった映像もあるようです。上映時間65分。満喫しました。堪能しました。
このアルバムは大事に持っています↓
「ルーフトップコンサート」の11か月後、日比谷野音、ジョン&ヨーコの「呼びかけ」↓
まさにレットイットビー↓
2016年東京ドーム↓
代わりに監督業を任されたのは上沢投手。選手の自主性を引き出しながら大局的な視点を持たせた新庄監督、と。
まるで一昨年亡くなった野村監督がやりそうなことですね。
充実の本展は各方面で既に様々取り上げられていますので、ちょいと角度を変えて・・・
紀元後79年のヴェスヴィオ山噴火による火山灰に覆われて、ローマ帝国の都市ポンペイ社会のありのままが残されました。
発掘品の中で、時間軸も空間軸も異なる現代日本と①そっくりそのまま相通じる(驚くべきことに) ②相通じるが中身が異なる ③まるっきり異なる を少々ご紹介します。
①壁職人の曲尺とコンパス。(壁はポンペイ文化の重要な構成要素でもあります。)
外壁(それこそ壁)に掘られた賃貸物件の広告。
②楽器。振って鳴らすとのことですが、私たち現代人の耳には美しい音色は聴こえそうにありませんね。
古代発掘品の楽器を見るたび、音楽に親しむのは人間の根源的な事なんだなといつも思わせられます。しかし、、、以前に聴く機会があった奈良時代の楽器の復元演奏は「雅び」とは程遠いくすんだ音にしか聞こえませんでした。
③古代や中世ヨーロッパにおける文字通りの裸体全身像は展覧会でよく見ますが(本展にもありました)、この造形は頭部とX部だけ。
そもそも「常識」がまるっきり違うわけで、もしも現代の観点そのままに私たちが「この作品の芸術的含意は?」と古代のポンペイ人に問うたとすれば「ちょっと何言ってるか分からない」てなところでしょう。
全て撮影OKだった約150点のなかで4点だけを選んだうちの1つが是れだと我が品性が疑われるかもしれないなあと躊躇しましたが、これをもって品性がどうのと心配するところがまさに現代人の「常識」。ポンペイ人はそこのところ真逆だったのでしょう。
②に関連して、16世紀に来日したヨーロッパ人の感想「われわれの間の種々の音響の音楽は音色がよく快感を与える。日本のは単調な響で喧しく鳴りひびき、ただ戦慄を与えるばかりである」↓
昨日午後NHKのアーカイブ番組で、上野動物園初代🐼カンカンとランランに関するドキュメンタリーを見ました。
中国から来て数日後にカンカンが鼻水を出し始めました。なにせ贈呈が決まってから来日まで僅かひと月で飼育ノウハウはほとんどゼロ。
困り果てながらも獣医氏は中国と言えば漢方薬!と葛根湯を。劇的に効いて事なきを得たとのことでした。
たしかに哺乳類どおしの私どもも風邪のごくひき初めはこれでたいてい治まります。症状が重くなってからはもう効かないけど。(個人の感想です。)
↑は上野動物園X代目🐼シャンシャン(昨年生まれた双子レイレイ・シャオシャオの姉)
上野動物園のパンダ↓
和歌山アドベンチャーワールドのパンダ↓
「みんな生活の中で何かに挑戦しているんだと思います」「守ることだって挑戦なんだと思います」。
傑出した能力を持ち併せていない私たち大多数にとって最高のエールだと思いました。
フリーの演技で4回転アクセルに挑んだことについて「王者として守るのではなく挑戦した。改めて挑戦とは」と問われた羽生結弦選手の返答です。
その全文↓
まるっきり言うまでもなく、謝る必要などIミリもありません。
昭和のころオリンピックを初めとする国際試合で「期待に応えられず」と謝る姿がしばしば見聞きされました。
しかし、世間も、選手たち自身も、そういうのは良くないと考えたのでしょう。しばらくの間は見ることがなかったと思います。
なのに何年か前から「復活」したのはナゼ?
何かにつけSNSやメディアで吊し上げ(→謝罪の連鎖)が常態化していることと相関関係があるのでは?という気がします。
北京冬季オリンピックきのう開会式のスタジアムは2008年夏季オリンピックのために作られましたが、手がけたのは反体制芸術家アイ・ウェイウェイ↓。やはり「鳥の巣」に何らかの「含意」があったのでは?と14年後の今ますます思えてきます。
4日前に死去した石原慎太郎氏の追悼文を3日前の『読売新聞』に書いていたばかりでした↓。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220201-OYT8T50129/
私小説上は暴飲暴食ぶりをサンザン書いていましたが。刊行された小説を全作 読んでいます。感想を何度も書いてきました↓。
16世紀戦国時代に何十年間も布教を行なった キリスト教ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、豊臣秀吉による禁教令が発布される前の時期に日本社会のあれこれを観察して著した。
こんな具合に・・・
ヨーロッパ人は大きな目を美しいとしている。日本人はそれをおそろしいものと考え、涙の出る部分の閉じているのを美しいとしている。
われわれは横に左から右に書く。彼らは縦に、いつも右から左に書く。われわれの書物の最後のページが終わるところから、彼らの本は始まる。
いくつか引用⇅した通り すべて1〜2行の箇条書きで、各々に訳者による数行の注釈が付されている。当時の日本社会の様々も、それらが事前情報なしで見た西洋人の目にどう映ったかも、とても興味深い。
もちろん、「西洋が上、非西洋が下」感覚(サイードが定義する「オリエンタリズム」)も所々垣間見える。
われわれの間の種々の音響の音楽は音色がよく快感を与える。日本のは単調な響で喧しく鳴りひびき、ただ戦慄を与えるばかりである。
両者の音楽はただただ異なるだけなのだが。ついでながら、最初に引用した「美しい目とは?」もそうであるように現代日本人の感性は「西洋化」しているということも言えるかもしれない。
われわれの聖像は美しく、敬虔の念を誘う。彼らのものは火中に焼かれる悪魔の形状をしていて、醜悪で恐怖の念を起こさせる。
たしかにキリスト教会にある聖像は慈愛の表情である(イエス像、マリア像、、、)。イエス磔像も苦悶の表情であれ怖くはない。だけど、仏寺にある明王像等は「怖ろしい」のではない。その意味や意義について、仏教側もキリスト教側も問答する気はサラサラなかったということか。
そして、当然ながら?僧侶をなじる。
われわれの間では、人は罪の償いをして、救霊を得るために修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れるために教団に入る。
日本人を褒めた箇所ももちろんある。
われわれは怒りの感情を大いに表わすし、また短慮をあまり抑制しない。彼らは特異な方法でそれを抑える。そしてきわめて中庸を得、思慮深い。
われわれの子供はその立居振舞に落着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で、全く賞讃に値する。
コミュニケーションを図るのタイヘンだったろうなあ、と感じられた箇所。
ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉を避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている。
われわれの間では偽りの笑いは不真面目だと考えられている。日本では品格のある高尚なこととされている。
して、現代の日本人は?
最後の引用として
われわれの間では誰も自分の欲する以上に酒を飲まず、人からしつこくすすめられることもない。日本では非常にしつこくすすめ合うので、あるものは嘔吐し、また他のものは酔払う。
この点もまた、現代の我々日本人は?