ドラマ少々分かりにくかったような。たしかにイシグロ小説は文体も構成ももってまわったテイストがあるにはある。昨日のドラマはその雰囲気を「忠実」に表現したと言えるのかもしれない。だけど映像のメリットは分かりやすさにもあるとすれば文章より分かりにくくしてどうする、とも思える。そもそも本作に限らずイシグロ小説はそんな文体や構成でも決して分かりにくくないし(そこもまたイシグロのウデと思う)。
ドラマ少々分かりにくかったような。たしかにイシグロ小説は文体も構成ももってまわったテイストがあるにはある。昨日のドラマはその雰囲気を「忠実」に表現したと言えるのかもしれない。だけど映像のメリットは分かりやすさにもあるとすれば文章より分かりにくくしてどうする、とも思える。そもそも本作に限らずイシグロ小説はそんな文体や構成でも決して分かりにくくないし(そこもまたイシグロのウデと思う)。
dot.asahi.comいつもながら言葉を必ず厳密に使う人だ。これまたいつもながら(対イチローに限らず)意味がハッキリしない質問をする記者がいて、意味を明確にするようイチローが促す場面も何度かあり。
イチローの言葉は含蓄も深い。
「自分には人望がない」は
彼が知る人望ある人(王貞治さん等?)には遠く及ばないという文字通りになる意味と併せて、カギカッコ付きの「人望」でもあると私は思う。忖度が重んじられたりイエスマンが重用されたりのいわゆる日本的組織で得られる種類の「人望」。彼の生き方と真逆であろうそれを求めるつもりは今後とも毛頭ないのだろう。
そしてウイットに富む。
投打二刀流の大谷翔平選手との対戦が実現しなかったのが残念だったとした上で、「できれば僕が投手で翔平が打者でやりたかったんですよ。それは誤解なきよう(会場笑)」は秀逸。
wwws.warnerbros.co.jp メディア情報によって私たち観客はあらかじめ、90歳の老人が麻薬の運び屋になるというインパクトの大きい話と知っている。しかも88歳の名優クリント・イーストウッドが演じる、と来ればどれほどドラマチックだろうと期待する。
家庭を省みず働きづめに働いてきたがネット販売の隆盛に負けて破産、ITに敵愾心を燃やし、素朴な人種偏見を持ち、メキシコ人に使われて「運搬」の仕事を始めた当初は荷が麻薬であることを知らない、、、といった人物造形が示されるほどにストーリーがどう転がっていくのかとワクワクさせられる序盤。
ところがしかし、これほどの材料が揃っていながらにして?!と思えるほどの地味なつくりだった。派手な大捕物劇はなく、違法行為に関与する葛藤が前面に押し出されるわけでもなく。
私が思うにその狙いは、、、
走行中のクリント車を同じ位置の上空から映して「運搬」を何度も淡々と繰り返している(もちろん多少なりとも波乱はあるが)ことを表す等々によって、現実は決してドラマチックではないというメッセージではないかと。劇中一つ一つのエピソードはフィクションであれ現代社会の「真実」を見せえたと思う。家族の間柄のドラマチックならざる「真実」も。
だから、とても見応えがあった。
非白人がレストランに入ると客の白人たちから険しい視線を浴びた上に白人警官から職質を受ける、といった前世紀に読んだルポ↓のような光景が今も(正確には2017年時点で)在ることも見せてもらえた。非白人が警官から職質のため車を止められたら命の危険が高い、というセリフもあり。
作品賞では?の前評判も高かった作です。タイトルはイタリアの首都ではなくメキシコの地名。
飼い犬の行動がとっても自然でした。とりわけ飼い主がもうすぐ帰宅することを音や気配で察知して玄関に向かってピョンピョン飛び跳ねての「おかえりなさい!」は、それってあるある!でした。犬を飼ったことがある者として。
それほどに、写実にこだわりぬいた作と思います。
本作が描いたのは1970年夏から一年間のメキシコ、ある家族と住込み家政婦の日常ですが
メキシコは私が子どものとき真っ先に覚えた国名の一つです。根っからのスポーツ好きである私、1968年メキシコ五輪と1970年サッカーW杯メキシコ大会があったからです。
メキシコ五輪と言えば、担任のA池先生が授業を放っぽって視聴覚教室(死語?)でテレビ中継を見せてくれました。プロ野球日本シリーズとどちらを見たいか生徒の多数決をとって。(メキシコ五輪とその4年前の東京五輪は10月開催で、当時の日本シリーズは昼間だった。)
そんな具合でこのA池先生は何かと型破り。いつも授業しながら煙草プカプカ、当番を決めて生徒に灰皿を洗わせる等々今の時代なら一発レッドカードもののアレコレもありました。
映画とゼンゼン関係ないことを書き連ねてスミマセン。だけど、監督が子どもだったときの自伝的な物語という佳作だけに観たあとオノレの回想に耽るのもオツなものと言えなくもないかもしれません。
作品賞は↓
集票力に期待した「選挙戦術」としての要請にすぎないのかもしれないが、
このさい政権党が「右」に傾き過ぎないよう力を尽くしてもらえまいか。
この映画は50余年前の実話に基づいている。1960年代の南部における黒人差別は朝日新聞本多勝一記者のルポ『アメリカ合州国』等で(暴力的なまでの「保守性」は映画「イージーライダー」等で)知り得ていたが、半世紀やそこらで人々の意識から偏見が払拭され切ることはないであろう。残存するそれがトランプ大統領支持層と重なっていると言えるのかどうか。
もちろん、その種の問題は米国に限らない。日本のたとえば女性観。選挙権がなく、民法上の能力制限といった70年以上前の旧法的な、一段低いと見る女性観が私たちの意識に少なからず残っているとしばしば感じられる。
なお、1970年発行の『アメリカ合州国』によると
1962年を描いた「グリーンブック」での南部のレストラン等における「黒人用」(同時期を描いた「ドリーム」でも↓)は1964年の公民権法成立によって無くなった。が、本多記者が取材した1969年時点では「実質的には明確に残ってい」たとのこと。
1962年、ニューヨークのカーネギーホール二階で豪華な部屋(「城」)に住む天才ピアニストの黒人シャーリーが米国南部で演奏ツアーを行なう。運転手兼ボディガードに雇われたのがイタリア系の無学で粗野なトニー。何から何までかけ離れた二人だが次第に心が通い合っていくロードムービーとの構図はありがちではあるが、起伏に富んだストーリー展開となにより二人(+トニー妻のドロレス)の好演によって、これほど後味の良い映画は観た覚えがない。
黒人差別が峻烈だった南部。レストランでホテルでトイレで「黒人お断り」「有色人種用」に直面する(タイトルの「グリーンブック」とは黒人専用ホテルのガイドブックのこと)。黒人へのあからさまな偏見に凝り固まっていたトニーだったが、シャーリーのピアノを初めて聴いて魅了された。もともと曲がったことが大嫌いなタチで、道中シャーリーを襲う理不尽を何度も「解決」する。
上流階級の音楽シーンに属していても白人でないことに変わりはなく、「城の主」であるシャーリーは黒人の間でも孤高であった。一方、米国社会の「主流」とされたアングロサクソンではないという立ち位置のトニーにはイタリア人ならではの譲れぬアイデンティティがある。妻を初めとして家族・血縁を深く愛し、旨いものを食べるのが好きでたまらない(どんな男かがよくわかる、食べっぷりのよさ!)。
そんなトニーだからこそ、「黒人でありながら」名ピアニストたらんとする姿勢を苦悩しながらも絶対に崩さないシャーリーを徐々にリスペクトするようになる。シャーリーのトニー観もまた同様。ニューヨークへの雪降る帰り道、シャーリーを守り抜いて精も根も尽き果てたトニーを家族が待つクリスマスイブに間に合わせようと運転を代わる。信頼し合う仲になった。トニーの偏見とシャーリーの孤高もすっかり変化していた。
そしてドロレスはなんと美しい心の持ち主よ。私を含めて観た人の涙腺が決壊したラストシーンのシャーリーへのひとことは、「この人こそ」と確信したからに違いない。
↓米国社会の「主流」はWASP(W白人、ASアングロサクソン、Pプロテスタント)とされていた。その「主流」から外れるアイルランド移民のアゲインストだった状況が描かれていた。
miyashinkun.hatenablog.com今も変わらぬ南部の「保守性」↓
miyashinkun.hatenablog.com